true japan

Its Culture, Business, through a Japanese Marketer's Eye.

令和に思うこと

やっぱり日本人は宗教的なんだなと思う

"そんなこと無いよ!"という声が大半だとは思うけど、海外の人は誰も日本人が非宗教的と思っていないです。特に、今この瞬間。
 
 ”日本は先進国でも稀に見る一大宗教国家に見えてます”

日本研究科家の目から見る天皇とは?

天皇が退任するという歴史上数少ない事象を目にして思うのは学生時代の研究室での教授とのやりとり。
当時の人類学の担当だったブラウン教授は日本文化研究の世界的大家であり、昭和天皇が晩年を迎えた時「私は天皇が亡くなられたら、すべての授業を放り出して最初の飛行機で日本に飛ぶ」と言っていた。
当時、天皇崩御の記録というのは実はあまり残っていなくて、限られた伝聞が残っている程度。部分的な動画記録もあったが日本文化を研究するものにとっては、一体日本で何が起きるのかを直接目にする機会として注目されていた。
 
敗戦後、天皇は象徴としての存在となり、そしてまた国民にも天皇は神では無いという意識が十分に根付いた1980年代後半に国民はどう反応するのか?
 
戦後に岩手県の水沢町に駐在し生涯日本研究を続けてきた教授に取っては「天皇崩御」というのは人生で一度切りのチャンスであり、大学に何を言われようが日本を見たかった。
 
かくして、彼は突然キャンパスから消えたw
 
彼の持論(と言うよりは日本文化研究家には当たり前の話)では「日本人ほど宗教的な国民は近代国家では珍しく、イスラム教徒に次ぐ宗教的価値観を持っている」と。
 
当時の自分から見れば日本人が宗教的などとは微塵も思っておらず、最初は教授の考えに対して真っ向から反発した。自分が如何に非宗教的なのかをアピールした。
 
過去に多くの日本人留学生を教えている教授にしてみれば想定内の反発であり、無知な日本人留学生を諌めるのは簡単な事。そして、私自身自らの行動が如何に宗教的な根拠に基づいているかを、彼の授業を通して学ばせてもらった。
 むしろブラウン教授にとっては、私は典型的な無意識な宗教信者として面白いサンプルで、人類学の授業でもケーススタディー的にいじられまくった。
 
大前提として、神はいない(と言ってしまうのは問題もあるのだが)のは事実(仮説)である。
しかし同時に、何らかの力、或いは心理人間の行動を制御していて、それが宗教的な価値観なのである
 
要するに"宗教的である"、"信心深い"というのは定義によって変わるのだ。
 
イスラムにおいては神(アッラー)がこの世の存在すべてであり、
キリスト教(一般的な解釈)においては神の存在を信じることであり、
神道においては、八百万の神々が・・・・と
 
私の中では日本人に根付いている宗教的価値観というのは、いまだに整理がついていないけど、学術界的には”宗教的である”と言う定義は、必ずしも神の存在を信じるとか、教会に通うではなくて、無意識に非科学的な行動をとってしまう事も当て嵌まるのだと。
 
結局のところ海外の人から見ると、今回の改元を見れば日本人は全体的に極めて宗教的な人種にしか見えないのよね。
 
「別に天皇が神と思ってないし」とか「神様はいないし」「お祭りごとだから」とか言う話は一般的だけど、行動学的に見てしまえば、大半の国民が天皇の存在を認め、改元という経済的な混乱と損失に対して大きな抵抗をする訳でもなく、5月1日の改元に向けてカウントダウンをしてしまうというのは、説明のつかない心理(=定義上の宗教)が人々を動かしてしまうこと。
  
TV番組でも「令和を迎えて、新しい時代が・・・・」という論調もあるが、そもそも政権も変わらないなか、何も今までと変わらないのが事実。こんな事を複数の局のアナウンサーが真顔で言う国は日本くらいでは無いだろうか?本当に無宗教であれば、公共の電波で「令和を迎えて、新しい時代・・・」という宗教的んステートメントにこそ強烈なクレームがくるのではないか?

宗教とそれに対峙する価値観(科学)との境目

ダン・ブラウンという米国人作家がいるけど、彼の作品がすべてにおいて、この宗教感を語っている。
 
これは人間が、自分達の知識で理解できる範囲が科学であり、それを超える部分が宗教と認識する。従って科学で理解できる範囲は時と共に広がり、神の力(宗教)と解釈される部分は必然的に狭まってくる。この境目を巡るせめぎ合いである。
 
古くは、火は神の力であり人間には理解できないものだった。
地震は神の怒りであり、人々は自らの過ちと捉え悔い改めるしか無かった。
 

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ダン・ブラウンの作品は教会が神の威厳を保つために、科学ではない神の絶対的な力を見せるというスキーム(またはその逆)が大筋。これは"天使と悪魔"における"カメルレンゴ"であり、"デセプション・ポイント"における"NASAの陰謀"である。
 
 本当に答えの無い、社会科学の話です。
 
さあ、まだまだ頑張らないとw

電子書籍の崩壊

某出版社から電子書籍の返金の案内が。

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以前、一度だけ購入した電子雑誌。購入価格がいくらだったかは憶えてないけど、おそらくプリント版の価格の9割位で850円位か?そして150円の返金の案内が。
果たしてこの返金にいくらのコストが掛かるのか?返金、振込手数料、作業管理費、この事業をたたむのにいくら掛かるのだろうか?これは電子版をプリント版並みの価格で販売しようとしたツケが回ってきたなという感じ。
これ、本来なら欧米並みに電子版はプリント版より遥かに安く設定した上で、サービス廃止時には返金無しで閲読権の中止にしておいたほうが安く済んだなという感じ。
 
出版業界へのeコマースの影響は大きいわけで、マーケティングコストを考えてもプリント版に限らず電子版も版元が運営していくのは厳しい。

電子書籍の罠

リプリント版というのは編集費も掛からずボロ儲けなモデルであり10年以上前のコミックスの単行本が再販されるのはそこが理由。ましてや電子版なんて印刷すらしない訳なので、これを定価の9割近くで売ると、止められない暴利。それも売れればの話。
欧米の多くの出版社は、電子版はプリント版の数分の一の価格で提供している。その背景は電子版というのはあくまでも閲読する”権利”の提供であって、サービス自体の廃止時にはその権利を放棄する前提のモデルだから。
まあプリント版ですら定期購読であれば1冊単価の4分の1くらいで購読できる(それも郵送込み)環境なので、その辺りについては日本より遥かに全体最適化が進んでいるのではないか?
 国内の場合、元々出版業界の闇的なお話として再販価格維持制度とか出版取次による流通なんかがあって、定期刊行物なんていうのは一度発行して流通に乗せてしまえば一時的とはいえ売上が立つ(売れ残りは返本で返金が発生するとは言え)訳で出版社の販売部門にとっては、社内で実績を自慢するためには最高の仕掛け。
以前どこかで読んだ記事で、日本の場合は欧米と比べて1ユーザーあたりの電子書籍の利用額が高いという話だったけど、それも電子版単価が高いせいであって、ユーザー数が多いという話ではなかった気が。そろそろ、雑誌や書籍といったメディアの電子版の流通価格については見直さないと出版社自身が立ち行かない(もうそうなってるかもしれないけど)。
 
 
 

コンテンツの死

この手の記事を見るたびにテレビ、というかその周辺の人達は学ばないなぁ〜と思ってしまう。視聴率なんてものはコンテンツの価値とは別なのに。

www.cyzo.com

CM枠という観点で見ればリアルタイム視聴こそが目指すところなのだろうけど、今どき録画をして見るのは当たり前の話。

本来的にはコンテンツの価値というのは時間に囚われる必要は無くて、良いコンテンツは制作者(或いは配信者)の意図を超えてユーザーに消費されるもの。それを無理にコントロールしようとする行為は、本来コンテンツが持つ力を無駄にしてしまう。

 

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先日のラスベガス訪問時に見かけたバットマン(オリジナル)のスロットマシーンなんていうのは典型で、60年台中盤に米国で放映されたテレビシリーズのキャラクターがいまだに愛されマネタイズしているのだ。

 日本のコンテンツも、もっと放し飼いにしないとアーカイブの底に埋もれてしまう。

必ずしもすべてのコンテンツが不自由な訳ではない。例えばアニメのキャラクターたちは放送時間という枠を飛び出して価値を生み続けているから。しかし、ことテレビドラマとなると放送時間という枠に囚われてしまう。

 いと悲し。

 

阿波踊りと大塚家具とIR法案

元々、ギャンブルには全く縁のない私。ただ最近、韓国のカジノ系カンファレンスの主催者と話をしていたので、色々とリサーチをしてみた。

今回のIR実施法案の可決までの過程において日本の社会にありがちな論点違いの議論が続いていて、これも大塚家具や阿波踊りの構造と一緒なのだなと。

IR実施法案は正しく議論されていない?

 先の国会で成立したIR実施法案ではあるが、話されていたのはカジノ法案としての側面からギャンブル依存症についての議論ばかりであり、本質的なIRビジネスとしてのフィージビリティの議論が全くなされていない。

forbesjapan.com 

国会を中心にここ数年間議論されて来たのは、

「アトランティックシティにように失敗したらどうするか?」

ギャンブル依存症が増えるのではないか?」

「どうなったら失敗するのか?」

ルールは大事、ギャンブル依存症は防がなくちゃいけない、マネーローンダリングも防止しなくてはいけない。だけど、失敗の議論をするのは時間の無駄でしかない。

大事なことはひとつ。どうやって成功させるのか?

 いくつかの課題が挙げられているが、実はそれよりも先に大きな問題がある。

そもそもインテグレーテッドリゾートの運営が日本資本に手に負えるか?である。事実として、IR法案の目玉としてはカジノが合法化されることであり、それによって日本に本格的な統合リゾートが開設されるという話。では、そこで「どうやって外貨を稼ぐのか?」「サステナブルなエコシステムを創るにはどうするのか?」

  

この問題の本質は、阿波踊り問題だったり大塚家具問題に共通する縦割り構造に見られる部分最適化の優先である。インテグレーテッドリゾートは、リゾート内における宿泊部門、レストラン部門、そしてカジノ部門の横串のコラボレーションに加え、地域を含めた全体最適化無しには実施不可能

 

成功事例であるラスベガスを見れば、はるか昔からリゾート内での全体最適化は当たり前で、ラスベガスに飛んでいるエアラインを含めた最適化(同程度の飛行距離であればラスベガス便は航空運賃が安い)までが行われている。

ラスベガスのビジネスモデルの凄さというのは、もはやカジノではない。その部分を理解する必要がある。

http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/29985/00000000/7-3.pdf

大阪府のIRに関するレポート資料であるが、注目すべきは24〜25ページ目にあるゲーム外(ギャンブル以外)の収益。 

ラスベガスにおけるIRでは、ゲーム以外の収益が90年代中期より5割を超える水準に近づき、2015年時点では6割以上がギャンブル以外からの収入になっているということ。

 

かつて米国においてカジノリゾートとして反映した街にはラスベガスやアトランティックシティーがあるが、ラスベガスが今の形でラスベガスが発展したのは、カジノ以外の娯楽をリゾート全体の仕組みに統合がうまくいったからであり、そしてその流れに乗れなかったアトランティックシティーは衰退した。アトランティックシティの衰退の理由は諸説語られているが、大都市近接型のIRというのが一つの理由であることは確かな筈。

日本を含む東アジアの今後の動き

今年9月にソウルで開催される予定であったKorea Gaming Plus Showが会場の建設遅延のために延期となった。ちょうどIR実施法案可決後ということで、日本から多くのホテル、カジノ機器事業者、投資機関などが訪問することが期待されていたが、とりあえずはお預け。

こちらは来年に向けての日本企業の誘致とともに、日本国内における開催ができないかを主催者と協議してみたい案件。

casino-ir-japan.com

 

過去のエントリーより引用:

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全体最適化が徹底されるカジノリゾートのモデル

グローバルイベントを支える会場にあるべきホテルの姿については、欧米にはいくつもあるのだが、誰でも知っているラスベガスの例を紹介。米国の主要都市から国内線でラスベガスに飛ぶ場合、同距離のフライトよりも料金が安く設定されている。ホテルも同様である。それは何故か?

そもそもラスベガスを訪問する旅行者は大半がカジノを訪れる前提で、なんらかの形でお金を落としてくれることになっている。そのため、カジノが協力して航空券代を安く設定できるようになっている。その値段設定によって、より多くの訪問者を集めれば、全体の売上が上がることは統計的に証明されている。

逆に、明らかにカジノでお金を使わない層ばかりが訪問するとすれば、航空券もホテル代も上昇する。実際に1979〜2003年までラスベガスで開催されていたCOMDEXの期間中は通常期よりホテル代は2倍以上の設定だった。COMDEXの参加者は、あまりにも仕事熱心で毎晩ネットワーキングパーティーに参加でカジノへは行かない。95年にCOMDEXを訪れた際には、カジノが半分くらいは開店休業状態でフロアの半分はクローズになっていた。

2003年より米NBCで放映されたLas Vegasというドラマシリーズがある。ラスベガスのカジノホテルであるモンテシートを舞台に、セキュリティチームの活躍を中心に展開する物語。コメディでありサスペンスであるこのドラマでは、ホテル、カジノ、レストランといったリゾート内の各ビジネスユニットがいかにして利益をあげていくかが描写されている。

 

米国でも屈指のリゾートであるラスベガスはコンベンションシティーとしても有名だが、このビジネスモデルは全体最適化を徹底している。リゾートの利益最大化のために、各部門のマネージャーの権限は最適化されていて、カジノに大金を落とす顧客からは部屋代、食事代も飛行機代も取らない。週末に数千万をカジノに落とす顧客から部屋代を取ることなんて全くホテルの利益にならなくて、それよりも全てをタダにした上で、リピーターとなってカジノで散財してもらう方がビジネスとしては論理的だから。

 

 

全体最適化は日本がグローバルで生き残るための最重要課題

先日どこかで「よそ者にはわからない事情もあるから東京の人には騒がれたくないよね。特にマスコミには何も言われたくないよね」と中の人が言っていたので控えていた阿波踊りの件。

diamond.jp

 

そもそも経営的観点からみれば、集客の多い会場での総踊りを中止して、他の会場に踊り手団体を分散させると言うのは愚行以外の何物でもなく、本来なら一番集客の多い南内町演舞場の会場に注力するのが常道であろうが、それを出来ないのは地域の事情があるのだろうから言及しない。

祭事と言うのは、地元にとってはビジネスの一面を持ちながらもフォークカルチャーそのものであって、それを市政が管理しようと言うのは現実無理。そもそも官への反発心としての祭事と、それを敢えて官が見過ごすことによって市井の感情を逸らすというのが多くの場合においての図式ではないだろうか?

さて今回の徳島市と振興協会の対立を見てて思ったのは、ある意味大塚家具のお家騒動と全く同じロジックにしか見えないということ。

大塚家具は親子喧嘩で「古典的な経営戦略の失敗」に陥った | 今週のキーワード 真壁昭夫 | ダイヤモンド・オンライン

  どちらも共通するのは、日本人の苦手な全体最適化の考え方であり、自分のナワバリと過去の成功手法への拘りが、すべてを阻害する。ここには論理的に正しい判断とかは関係なく、感情がロジックをオーバーライドする。だから変われない、変わらせない、そして周りの新たな環境に飲み込まれる。

元来日本は島国であったため、内輪の争いがあったところで外からの攻めは大陸に比べれば圧倒的に少なかった訳で、中のことだけ見てればどうにかなったのだけど、現代の経済においては、そうもいかない。だから大塚家具は国内外の競合にシェアを奪われる。

 

 逆に全体最適化がうまく行った事例だっていくつもあり、やはりそれらの事例を見ると、個の利益ではなく組織全体の利益を考えた事案はうまく行っているなと。

diamond.jp

改めて9年前に書いたエントリーを見てると同じような事例は黒川温泉にもあった。

黒川温泉に出版社再生のヒントを見つけた - Find JAPAN!

afuruya.hatenablog.com