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日本のためにならない「FREE」礼賛論を疑え!

慶応大学の助教授である岸博幸氏が、週刊ダイヤモンド3月13日号における特集の「FREEの正体」についての反論を展開している。

本特集は、米Wired編集長であるクリス・アンダーソンの書いた「FREE」についての特集であるが、このFREEをもてはやす傾向に対しての岸氏の反論である。

岸氏の主張も理解できるし、当然コンテンツは有料化されるべきである(そうでないと、コンテンツの供給が出来なくなる)と考えている。私自身、コンテンツカンパニーに勤務してきた背景から、コンテンツを作成するためのコストは理解している。


しかし、原点に帰って考えるのであれば、なぜ(日本国内において)今日のような状況になったのかを考える必要がある。それは、どのような経緯でコンテンツメディアが、Yahooのようなポータルサイトにコンテンツを提供するようになったかの歴史的背景。

最初に権利を蔑ろにしたのは誰か?

そもそもYahooが検索ディレクトリサービスを開始した当初は、当たり前のようだが、新聞等のニュースコンテンツはポータル上に存在しなかった。

初期のポータルサイトのコンテンツといえば、海外のWebサイトやまだ絶対数の少なかった企業のWebサイトのディレクトリが中心であったと記憶している。

ユーザー達がインターネットというものを利用して、世界中に存在するコンテンツに接触していくなかで、掲示板やメーリングリストといった様々なサービスを利用するようになり、その中からポータルサイトがコンテンツ価値(需要)の高いものを拡充していった経緯がある。

その中でもユーザーが自らのホームページ(当時はブログが無かった)や掲示板で、新聞・雑誌・テレビの情報を語り合うのを見て、ポータルはそのような情報をサイトで提供出来ないかを考えた。

そこで、喜んでコンテンツを提供したのは新聞社なのだ。この思慮の無さが、現在の状況を招いている。今日のコンテンツのコモディティ化の弾鉄を引いたのは、実はコンテンツメディア側なのである。

それに対して雑誌は慎重だった。テレビは著作権の処理のリスクを考えた。もちろん後に雑誌コンテンツも自社のWebコンテンツをポータルに提供するような動きもあり、現在では新聞と変わらない状況になっている。

もちろん当時、コンテンツがフリーになるといった現在のような状況を想像できた訳ではない。しかし現実には、自らの行為が自分の首を締めたことは間違いない。

新聞社(テレビ局も同じだろう)と言う業態においては、コンテンツが世に出た時に最大の価値を持つとされ、その時制のコントロールがメディアのパワーと信じられてきた。

これが、ネットによるコンテンツ・コンテナ・コンベアの分離(新聞・テレビ消滅佐々木俊尚氏を参照)により、見せたい記事・見せたい時間といった、従来はメディアが持っていた機能をポータル(強いて言えばユーザー)に奪われた。

面白い事に、新聞社の持つこの特性が、ニュースメディア分野でのWebビジネスを確立するための布石になった事は疑いようがない。

本来であれば、その日の紙面に掲載されるニュース、広告といったあらゆる要素をコントロールしていた編成に対して、Webにおけるニュースコンテンツの編成権を新聞本紙の編成部ではないビジネスユニットに委ねた事は画期的であった。

本誌編成としては、一度紙面に掲載されたニュースを軽視するが故、Webでのニュースサイト立ち上げに対しては、大した懸念を抱いていなかった。それが、今日のNikkei netである。

まあ、この新聞の文化(その日の新聞に載った後の情報に価値を感じない)が日経ネットと言う、新聞社としては択一したサービスを作り上げた事も事実。

日経新聞電子版への期待

世間ではビジネスモデルを揶揄される電子新聞事業ではあるが、今後のコンテンツメディアのビジネスモデルを考える上では、この事業には期待をしたい。

そのためには、廃刊後Webで復活したSeattle PIのような大胆なアプローチが必要かもしれない。

本来、新聞・テレビ・雑誌といったメディア事業では、人件費コストが支出に対して大きな比重を占めており、この人件費は時間と共に増大する傾向にある。

それに対して、ポータルを代表とするネット事業者では、人に対する支出もさることながら、技術に対する投資額が非常に大きい。しかし技術に対する投資は、時間と共にコスト削減効果を期待できる。


旧来型コンテンツメディア企業も、何らかの方法でコスト競争力を活かし、「FREE」という新しい価値観と戦っていかなくてはいけない局面を迎えている。


追記:

岸氏の執筆するコラムは、話題性としては面白いものが目立つ。しかし以前より気になっているのは、自らが事象に接する以前の背景等についての検証が甘いと感じる事が多い。そのため、一方的な論調で自説を通そうとする傾向があり、一部の読者からは、あまりフェアな議論に見えてこないのではないだろうか?

今後、相反する意見に対しての検証を深め、対立意見に対してのポジティブな部分を解析を進める事が出来れば、もっと面白い情報を提供してくれるのではないかと思う。